3.
無意識に、潮時という言葉を知っていたのかもしれない。
うだるような暑さが空気に歪みを見せだした頃。 ガタン。 椅子から崩れ落ちる音。 そして、地上にぶつかる音。 目覚めなければいけない音。 突然の騒音、小さな悲鳴、クラスがざわめく。 ついにサキが倒れた。もう限界だったのだろう。アユムはサキが崩れる様を、スローモーションの映画でも見るように、落ち着いて見ていた。 近くの席に座っていた者や、教師が駆け寄る。しかし、アユムが動かずじっと、サキを見ていた。 サキもまた、他人の助けを求めていなかった。よろめきながらも自力で起き上がる。 「気分が悪いので、保健室に行ってきます」 静かに、そう言うサキに教師も満足に言葉を返すことができない。 「付き添いは、アユムがいれば平気ですから」 サキの言葉とほぼ同時。アユムは物音一つ立てずにサキを立たせ、その細い腕を引き、教室を出た。 「どこへ行く?」 「何が?」 「サキの行きたい場所へ行くよ」 「…気分が悪いんだもの、保健室に決まってるじゃない」 「わかった」
保健室には誰もいなかった。西日がベッドに射しこむ。柔らかい、空気が皮膚にあたる。 アユムはサキをベッドの日が射して暖かくなった部分に座らせ、そして正面に立つ。 「ありがとう」 サキの笑顔はいつからこんなに儚くなったのだろう。 「どうしたの?」 アユムには分かっていた。自分なのだと。 「サキ、もうやめよう」 「…」 サキは否定の意味合いのある言葉をひどく嫌う、それが例え勉強やテレビなど、実生活と離れたところのものでもだ。否定語に対して、かなりの恐怖感を持っているのだ。『駄目』、『嫌い』、『嫌だ』と言った言葉を不用意に口にすると物凄い癇癪を引き起こした。 アユムはサキの怒りを覚悟していた。しかし、サキは笑っていた。 「サキ…」 「おかしなことを言うのね」 「サキ?」 「そんな風に名前を呼ばないでと言ったでしょう?」 風が耳障りな音を立てて、アユムの背後を通っていく。鐘が鳴っている。授業開始のチャイムだろうか?いや、これはアユムの中で鳴っている警鐘だ。 それでも、アユムはもう戻れないことを知っていた。 「もう、必要ないんだよ」 本来、サキを前に進ませるための存在だったはずだ。 独りでは生きていけないサキのために生まれた。サキが必要としていたからそこにいた。サキが作った…。 「寂しかったんだろう?」 「…るさい」 「でも、サキは一人なんかじゃないよ」 「うるさい、うるさい、うるさいっ!」 もはや、サキの瞳はアユムを写していなかった。何が憎いのか、全てに当たるように喉から声を絞り出す。その姿は親に叱られた子供と同様である。 「お姉ちゃんはどこへ行ったの?」 「!!」 「そもそも、サキにお姉ちゃんなんていなかった」 「…つき!嘘つき!嘘つき!」
「どうして?ずっと一緒にいるって言ったじゃない」 「ずーっと一緒よ。これから私がサキのお母さんになるんだもの」 「お母さんなんていらないよ。私はずっとお姉ちゃんと一緒にいたいの」 「ふふふ、ありがとう。でも一番になるんだもの、お母さんになりたいな」 そう言う女の人は、もはやサキのお姉ちゃんの顔ではなかった。 「おい!」 「ちょっと待ってて。サキと一緒に行くから」 「早くしなさい」 「わかってます」 父と話すこの人は誰だろう。 落ち着いたアルト。 「お母さんはお父さんの一番でしょ?」 「お父さんとサキの一番だよ」 「いらない」 「サキ?」 「一緒に逃げてくれるって言った!いつも一緒だって言った!」 「そうよ、どこへでも一緒に行くわ。いつも一緒よ、行きましょう」 美しく微笑む女性。 「私だけの一番が良かったの、お父さんのものじゃなくて私のものが欲しかったのに」
サキの内にある恐怖や絶望をアユムは既に承知していた。それでも言葉を止めない。 「逃げたかった?お姉ちゃんに会いたかった?」 「アンタに何がわかるって言うの?」 そう答えるサキの表情にはもはやあの美しい笑顔を感じさせるものが何一つなかった。 心が痛む――アユムのこの痛みはサキのものだ――けれど、動けないサキのためにあるアユムが、サキを止めてはいけないのだ。 「分かるよ、もうすぐ消えてしまう自分が恐いんだから」 「アユム?」 「自分が実在していないことを自覚することは、自分が独りだと思い込むことより恐いことだと思うよ」 だって、これはアユムの痛みじゃない。 「気付いちゃったんだ。『アユム』には帰る家すら存在していない」 サキがよろよろとベッドから立ち上がり、そしてアユムに触れる。ベッドにはサキの座っていた証となる窪みとサキ自身の影が残る。 「こんなに暖かいのに、触れて、話して、声は耳に、頭に、心に残ってるのに?」 「そういう風にサキが作ったから」 背中が凍りつく。今、サキの目の前に立っている、この人はいったい誰だろう。 「もう、帰る家もないんだよ、自分には」 「私にだって!」 「サキにはあるよ。ないと思うなら、これからいくらでも作れる」 「私だけのものが欲しかったの。生きている証が。それがないと不安だった」 「わかってる。でも、その証は『アユム』じゃない。本来なら、必要がなかった存在なんだから」
「サキ、どうして帰りが遅いの?」 「私の勝手でしょう、関係ないわ」 「一緒にいるって約束したじゃない」 悲しそうなアルト。そんな声が聞きたいんじゃない。 「いつまでも気持ちの悪いこと言わないでよ!」 「いい加減にしないか、サキ。そんなことでは困るぞ」 「父さんは困りゃしないわよ」 「もうすぐ、お前は姉になる。もう少し、落ち着いたらどうだ」 「妹…」 「そうよ、サキ。これでずっと私たちは一緒よ。可愛がってあげてね」 アルトが優しい響きに変わる。けれど、サキの心は凍ってしまった。 ああ、もはやこの人はどうやっても私だけのものにはならないのだ。
最初に止まった心を動かすために、サキには『アユム』が必要だった。目立たないだけの存在。そこにいるだけの、存在に価値があるかどうかも分からないもの。 でも、サキはそれ以上のものが欲しくなった。 逃げたかった。 助けて欲しかった。 私だけを見てくれる人が欲しかった。 あのアルトをもう一度手に入れたかった。
「もうどうやっても、アユムは私のものにならないのね?」 サキの表情はこれまでアユムに見せてきた美しい笑みではなく、自嘲的なものだった。或いは、それが本来のサキの表情なのかもしれない。 「初めから、サキのものだったんだよ。とっくにね」 「私に独りになれって言うの?」 「『アユム』と一緒にいても、サキが望むものは永遠に得られないよ」 「私が望んでるのは、側にいて欲しいってことだけよ」 「横に立つことはできないけど、常に同じ場所に立ってるよ。『アユム』はサキに帰るだけだから」
皆さんは真理という言葉の意味を知っているだろうか? 本当のこととは、つまりどこにも隠れていないこと。 忘れ去られている状態から明るみにだされた状態を言う。 今なら、それがどういうことなのか分かる気がする。 必然だったかもしれない。けれど、偶然だったのだと思う。 果たして『アユム』は存在したのか。サキに本当に姉がいたのか。それはサキにしか分からないことだ。
今でも覚えていること。 アユム。 その声。優しいアルト。まるで包み込むような。 その表情。 アユムはとても綺麗に微笑んでいた。その動きの一つ一つ。指先から足の先までを鮮明に記憶している。 そして、サキに接吻をした。 お互いのセーラー服のスカーフが瞬間絡み合い、そしてすぐに離れた。 今でも分からないこと。 何故、アユムはサキに口付けたのか。 本当は分かってること。 並んで歩くことはできないけど、誰よりも愛してること。 アユムの言葉の意味。 「私は欠片も残らない。でも、全てサキのものだから。残るものもきっとある。」
KISSED
サキはもうアユムを呼ばない。二度と会うこともないだろう。 けれど、もし、もし再び会ったなら。 その時はサキからアユムに口付けるだろう。 アユムの存在を確かめるように。
キスを。
その愛が本物ならば、アユムの存在も、おそらく。
FIN.
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