2.
チャイムの音は時にひどく寂しい、鐘の音というのは祝い事でも用いられるはずなのに、アユムはそう感じる。
学校という空間もまた、全て蜃気楼が生み出す幻のように感じられることが多い。社会に出る前の擬似社会。現実であってどこか非現実。白塗りコンクリートのお城。
クラスメイトは家族よりも長い時間をそこで過ごすが、だが実際にはお互い何も知らない。当然、アユムはサキのことをよく知らない。強いて言えば、自分は城の中でもそこに勤める侍従のような存在であるのに対し、サキはその城の中で高貴な存在と言えるので、その存在・光…そういったものは認識していた。
が、間違ってもサキがアユムのことをよく知っているとは思えない。
どうして?
ザーーーー
窓から風。窓際の隅のアユムの机にはハラハラと葉が落ちた。その風と葉の音も今のアユムには聞こえなかった。
その日を境に、サキはアユムに特別な執着を見せるようになる。それまでは、まるで教室の影でしかなかったアユムが美しいサキと共にいることで、急に教室でもその存在を認められるようになっていった。
「ふふふ」
サキは笑う。とても美しい、けれど残酷な笑みだ。
「何か、面白い?」
「ええ、とってもね」
アユムにはサキが自分をどうしたいのか、まるで分からなかった。ことさらに、人前で腕を組んだり、帰りもわざと後ろから声をかけて一緒に学校を出る。だが、その後に何か特別なことがあるわけではない。サキは1時間ほど、自分を連れ歩いて満足するとそこで家に帰っていく。
毎日がその繰り返しだった。
そして、
「サキ」
「そんな風に名前を呼ばないで!」
そう、サキはひどくアユムのサキの呼び方にこだわった。呆れるように、咎めるようにサキの名を呼べば、すぐに癇癪を起こした。かと言って、そこからアユムがだんまりを決め込むと、すぐにしおらしく謝ってくるのだった。
「ごめんなさい、アユム。名前呼んで?ね?」
「サキ」
「もっと」
「サキ…、サキ」
「ふふ」
これだけのことだ。サキは優しく、囁くように名前を呼んでやると本当に喜ぶ。幼い子供のように。
アユムを振り回すサキと、こうやって子供のように笑うサキは本当に同じサキなのだろうか。アユムの中でサキのいくつもの笑顔が写真のフィルムのように切り出されていった。
だが、アユム自身も気付いていないこと。アユム自身、離れたいなら離れればいい、聞きたいことがあるなら尋ねればいい、それなのに、サキの側にいるだけの自分にまだ、気付いていなかった。
「サキ」
「なあに?」
「どこへ逃げたかった?」
「…」
「最初に言っただろう?一緒に逃げてくれって」
「逃げる?私が?」
サキはまるで覚えのないことを言われるように首を傾げる。きっと、本当に記憶にないのだろう。
「覚えてないのか?最初に話しかけてきたときのこと」
風の音が煩い。心拍と葉が揺れる音がシンクロする。心臓が早鐘を打つとはこんな状態のことを言うのだろうか。
「変なこと言うのね。私は逃げたことなんてないわ。アユムがここにいるのに。逃げる必要なんてないでしょう?」
「そうか、じゃあいい」
それ以上は何を言っても無駄だと思い、アユムは言葉を止める。しかし、一方でサキの頭はひどく混乱していた。
「…お姉ちゃんは…ううん、アユムはずっと一緒にいてくれる」
それはサキの小さな悲鳴。
どこから逃げるって言うのだろう。
「なんて可愛いんでしょう」
「ご自慢の娘さんでしょうね」
「いやだわ、そんなことありませんのよ」
「器量の悪い子で…」
「そんな、笑ってくれるだけで周りを幸せにしてくれるようですよ」
周りのノイズが煩い。笑い方は、自然と覚えた。おそらく、サキは寂しいなんて感情も知らない。本当に寂しい子供は『寂しい』という感情を知らないままなのだ。ただ、不便だと・煩わしいと、そういった即物的な感情に置き換えることで自分を生かす。
サキはたくさんの女の中で実の母の顔がどれだったかも思い出せない。父の顔は、知ってこそいるものの、さらに他人だ。顔を会わせたのがたくさんの母親以下でしかなかったのだ。
覚えているのは唯一つ、
「サキ…サキ…」
気付くと側にいた。誰もいない広い家、暗い夜、不自由で仕方がなかった時、そっと名前を呼んでくれた。
家出のつもりじゃなかったけど、ふと家にいてもすることがなくて部屋を飛び出した時、隣町の公園まで来たものの帰る道が分からなくなった、父の知り合いの家の庭で蝶を追いかけるうちに道からそれてしまった、そんな時。常にそこには暖かい声があった。
アルト。サキを一人にはしないその存在。その美しい笑みはサキが浮かべることのできないものだった。
「そうよ、いつも側にいるわ」
「お姉ちゃん…」
優しくて、柔らかくて、そっと包んでくれた。真綿ように。
「ええ、サキが一番大事だもの」
「…嘘つき」
サキによるアユムの拘束は春から夏への日差しと共に日々、酷くなった。休み時間は常にアユムの机に来て、他の人間には見向きもしなかった。
当然、クラスのアユムに対する風当たりも強くなる。サキはクラスでも自然と目立つ存在であるのに対して、アユムは全く目立たない存在だったのだ。その2人が一緒にいれば、そこにどんな理由があろうとも、クラスメイトはアユムに良い感情を抱くはずもない。
サキはそれを知ってか知らずか、さらにアユムにしか構おうとしなくなる。
何かに怯えるように、何か焦るように、サキはアユムにしがみつくことで自分を保っているようにも感じられた。
だがそれにより、アユムの何もない、穏やかで平穏だった生活はいつしか、息が詰まりそうなものへと変わっていった。
季節はちょうど、夏の手前。じりじりとした湿気と教室の空気にアユムは眩暈がしていた。
思い返すと、何故そんなことを言ったのかアユム自身にもわからない。ただ、アユム自身限界だったのだ。
ここまで、サキに振り回されている自分自身がよくわからなかった。何故、自分は彼女を遠ざけることをしないのか。
これまでの自分ならそうしてたはずだ。仮にそれで、教室内の更なる反感を買ったとしても、今までのアユムなら束縛よりも無視を選んでいたはずだ。
自分はそれほどまでにサキに惹かれていたのだろうか、何度考えてもアユムには自分がサキと一緒にいる理由が分からなかったし、けれどサキを嫌いかと問われると嫌いと言い切ることができなかった。アユムにとって、サキとは何なのだろうか。いや、そうではない。アユムには分かり始めていた。アユムにとってのサキとはたぶん何でもないのだ。
大事なのはサキにとってのアユムなのだ。
そのことに気付いたのはいつか。いや、気付いたというよりも知っていたと言うべきか。
「お姉ちゃんか…」
|