キスト。


 今も分からないことが一つ。
 ただ分かるのはその美しさ。彼女はとても綺麗に微笑む人で、その動きの一つ一つ。指先から足の先までを鮮明に記憶している。


 
 アユムは特に目立つ方ではない。むしろ、目立たない方であると言えるかもしれない。闘争心などというものに欠けている自分に自覚があったし、割と一人でいるのが苦痛にならないタイプであったので、およそ社交性と呼べるようなものも持ち合わせていなかった。
 だから、クラスメイトに覚えられていないという可能性は考えられても、「選ばれる」ことなど思いつきもしなかったのだ。
「私と一緒に逃げてくれないかな?」
 その日は月曜の朝。天気は晴れ。前日の雨のせいで空はどこまでも青く、空気と土からはやや湿った匂いがした。目の前には何の悪意もない笑顔を浮かべる少女が一人、――クラスメイトであるサキという少女であり、その時、アユムはそのクラスでも目立つ顔こそ覚えていたが、名前を覚えていなかった――手を身体の後ろで合わせるようにして立っていた。セーラー服のスカーフはアイロンのノリがしっかりかかっていることが見て分かるぐらい、きちんと結わいてあり、その制服…いや、彼女自身からは石鹸の香りがした。爽やかな石鹸の香りのはずであるが、セーラー服の赤いスカーフの妖しい揺れと共に目の前のサキからは眩暈がしてくるような妖艶さも感じられた。
 そもそもアユムがその日の朝早くに学校に行ったのは日直のためで、一緒の当番のクラスメイトはサボり常連であり、一人で花瓶の水替えと黒板の準備をする時間、それはアユムにとって、学校と言う空間での数少ないプライベートとして大切にしている時間だった。
 だからこそ、教室の扉を空けた正面の窓際にサキがいたのも不思議だったし、まして突然声をかけられ、そんな風に声をかけられるとは予想しているはずもなかった。
「…どこに」
「やっと口を開いたかと思ったらそれ?」
 『やっと』とサキは言うが、アユムにしてみれば、突拍子もない呼びかけに反応するのに数十秒要したことを責められるなんて理不尽以外の何者でもない。
 あんまりだと思って、アユムが呆れた表情をするとサキはふっと、微笑んだ。
 それはまるで大輪の花のような笑顔だった。 
 サキは糸を通したようである。
 姿勢が良いのだ。背筋に糸か、それこそ定規でも通したようで、実際には160センチほどの身長を更に高く見せ、アユムも何だかシャッキリしないといけない気分にさせられる。また、クラスメイトとは言え、ほとんど初対面同然であったアユムに対しての態度から分かる通りのマイペースでもある。
 それは1本の糸の上をすっと通るような、細く、真っ直ぐな意思の表れであるかもしれない。
 ぐいと腕を引かれた。そして、気が付いときにはアユムはサキに腕を引っ張られ教室を出ていた。
「ちょっと何…」
「いいから。どうせ暇でしょ、アユム!」
 暇ではない、日直なのだ、そう言おうとしたのと同時に突然呼び捨てにされた驚きや、その美しい笑顔や、それら全てが頭の中でスパークし、アユムの思考はまたしても一時停止してしまった。
 結局、校舎の下駄箱で担任に呼び止められアユムとサキの足は止まった。今でも、アユムは思う。あの時、誰にも呼び止められなかったら、自分はおそらくそのままサキに付いて行っただろう。そうしたら、自分は今頃どうしているのだろうかと。

 だが、それは結局叶わず、アユムは今ここにいて、そして、そこにサキはいない、それが現実だ。

 その日の授業ほど、アユムが集中できなかったことはない。教師に指されても満足に答えられず、日直の仕事も忘れ、教師にも心配され、クラスメイトを驚かせてしまった。常に、よく言えば物静かな優等生であり、悪く言えばそこに存在するかどうかも分からないような存在だったアユムは一日で急に目立つことをしでかしてしまったと言えた。
 今まで一度も気にもしていなかったが、気にしだすと一日中、何度もサキと目が合った。彼女は気が付くとアユムを見ていた。その度に、ふわりと笑む彼女の表情が何を意味しているのかアユムには全く分からなかったが、ただ鼓動ばかりが速くなるのを感じた。

 
 いつもより速い心拍数に自覚があり、落ち着いた振りをするのに必死だった。
 誰でも良い、そう思っていた。今日、最初に教室に来た人にしようと――何を?
 だけど、それがアユムだとは思っていなかった――本当に?
 アユムが現れたときもまだサキは落ち着いていた。予測はしていなかったけれど、考えれば、アユムが朝の教室で一人でいるという姿はとても納得のいくものだった。だが、それでもアユムが必ず最初に来るかなんてことはサキには分からなかったのだから。
 そして、偶然でも何でも現れたのはアユムだ。アユムはクラスの中でも特別に目立たない存在である。『特別に目立たない』と言うのも凄いことだとサキは思う。何もしないと言うのは時に酷く目立つ行為であるのだから。アユムはクラスの中でどのように立ち回ればそんなポジションにくることができるのだろうか。
 
 サキもまた、アユムのことを単なるクラスメイトの一人としてしか認識していなかった――そう、初めてアユムの声を聞くまでは。
 
 サキにとってあの声は反則だった。落ち着いたアルト。少しハスキーで、いつもサキを包んでくれていた声に似ている。
 どうしてもアユムを前にすると落ち着かない。朝もそうだ。落ち着いた素振りするのに必死で、アユムに喋らせる隙を与えられなかった。
 あの声はもうサキのものではないのに。
 ふと気付くとアユムがこちらを見ているのがわかる。ああ、また手に入れられるかもしれない。どうして逃げようなんて思ったのだろう。何も不都合なんてないのだ。そう、「アユム」がいればきっと。そう思ったサキはふわりと笑う。その笑顔はアユムに対してのものなのか、自分に対してのものなのか、サキ自身にも分からなかった。
 


 ここで一つ、偶然と必然についての話をしよう。
 「偶然」とは何か?それは「必然」の否定である。では、サキの前にアユムがいたことは本当に「必然ではなかった」と言えるのだろうか?
 そもそもこの世界に偶然なんてものがあるとすれば、それはいったいどこにあるのか。
 だが、アユムとサキが出会うことが「必然」であるとすれば、それはまた彼らが今、並んでいることができないのも「必然」であるのだろうか。
 別れることが「必然」であったのに何故出会うのだろうか。「必然」でないとすれば、やはりそれは「偶然」なのだろうか。全てを知るもの、答えを出せるものはここにはいない。

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