雨垂れ石を穿つ



 「雨垂れ石を穿つ」という言葉がある。同じ所に落ちる雨垂れが長い時間をかけて石に穴を開けることを言う。
 ポツーン。ポツーン。
 ピチャ。ピチャ。
 心に穴が開く日もそう遠くはない。



 兄はよく笑う人だった。馬鹿笑いという意味ではなく、ただ静かに、微笑む人だった。
 地べたに寝そべって、空を見るのが好きな人だった。俺にはその気持ちは分からなかった。
 「こうしているとね、広い空の下にいる自分の矮小さに気付かされる。寂しいけれど、その瞬間がとても愛しいんだよ。亜樹もやってみるといい。」
 俺はそんな気持ちなんてちっとも知りたくないし、こういうことを言う兄のことを全く理解できなかったので無視をした。
 そしてその翌日、兄は姿を消した。
 あの時俺が一緒に横になってやれば、その空を見てやれば、せめて少しでも分かった風なことを言えば、兄はいなくならなかったんだろうか。
 あの日からもうすぐ三年になる。兄の消息はわからないまま、俺はもうすぐあの日の兄と同じ年になろうとしている。
 大人だと思っていた兄と同い年になっても子供のままの自分がいて、兄の失踪もあの頃のように美しくて謎めいたものには思えなくなった。
 俺はよく兄のことを考えるようになった。昔はただ、変なやつだと思っていただけだったけれど、あの日からはどうして俺は兄のことがわからないのだろうかと考えることが多い。映画やドラマなら実は血の繋がらない兄弟でしたというオチも有りかもしれないが、俺たちが実の兄弟だということは間違えがない。何しろ、戸籍を調べようが、血液型を調べようが両親に後ろめたいことは何一つ無く、そして、俺と兄の顔は恐ろしいほどに良く似ている・・いや、似てきたのだ。
 いつの頃からか、俺は鏡を見るのが嫌になった。鏡の中には兄がいる。しかも、俺の記憶にあるような笑顔の兄ではなく、仏頂面の不機嫌そうな兄だ。これが更に兄の顔を歪める原因になっている。
 何日か家を空けて帰ったときのお袋の反応は更に傑作だ。毎度毎度、飽きることなく俺のことを「由貴。」と呼ぶのだから。少し哀れに思えてくる。まあ、兄がいなくなってすぐに単身赴任に出た親父よりかはマシではあるが。
 それにしても、いつから俺はこんなにも兄と似てきたのだろう。その輪郭、皮膚、鼻、体格まで今の俺はあの頃の兄そのものだ。ただ違うのは眼。どんなに俺が心穏やかであっても、微笑んだとしても、あの眼は今ここにいない。


 雨は静かに降り続ける。
 五月の雨は何か寂しい。
 心を陰鬱にさせる雨だ。
 降り続く雨を止める力もなく・・・
 ここから一歩も動くことの出来ない身体を引きずり、
 未だ立ち続ける自分。



 特に理由はないが、俺は毎日最後に兄と話した場所に来ている。家にいると俺の顔を見て泣きそうになっているお袋の顔を見てしまう破目になるし、俺自身、兄に会いたいと思っているのかもしれない。
 三年前、そこは通学路近くのちょっとしたスペースでよく俺たちくらいの子供の遊び場だった。今ではその半分くらいのスペースがコンビニによって埋まり、以前とは違う意味で子供の溜まり場になっている。
 俺は毎日コンビニに寄った後、その横のスペースのガードレールに寄りかかり、数時間を過ごす。
 兄がここに来るという保証はもちろんない。
 だが、もし兄が戻ってくるとしたらきっとここではないかと思う。そしてそう思っているのは俺だけではない。

 それは一人の女。
 お互いに何か特別な話はしない。三年もの間、毎日会っていたわけだが、俺から彼女に話しかけたことはない。だが、あの女はいつも兄を待っている。俺がだいたい夕方ここに来ると、彼女はたいてい既にいた。たまに俺の方が早く来る日などのあの女の形相はすごい。息を切らしながら走ってきて俺の顔を見るなり溜め息を吐く。おそらく遠くから俺を兄と見間違えたのだろう。
 あの女が兄の何なのか実のところ俺にはわからない。

 空の暖かな色合いが一日の終盤に入ったことを知らせる。
 俺は相も変わらず何も言わずに家を出て、コンビニへと向かう。風が強い。草木が大きく揺れ、耳障りな音がする。俺はコンビニで雑誌とペットボトルの烏龍茶を買う。
 彼女は今日もここに来ている。
 年齢はおそらく俺とほぼ同じ。兄より上ということはないだろう。三年前は腰の辺りまであった髪も今年に入ってボブになった。
 コンビニから出た俺と目が合うと、会釈をしてきた。あわてて俺もそれに返す。
 直立不動の彼女の脇を通り、いつものガードレールに寄りかかる。ペットボトルを足元に置き、俺は雑誌を見ながら同時に彼女を観察する。
 彼女は今日もコンビニの入り口付近(確か兄が寝そべっていたのもあの辺りだった気がする)に何にもたれることもなく背筋を伸ばし立っている。視線は下がりがちにはなるものの、顔を上げ、眼を開いて前を見る。これを2、3時間、雨に日も今日よりも風の強い日も続けるのだから恐れ入る。
 
 一年ほど前の台風の日もそうだ。風雨の激しさにそもそも何となく通っていただけだった俺はこんな日にわざわざ出かけることもないと思っていた。が、気になっていたことがあった。彼女は今日も着ているのだろうか。
 気付くと俺は家を飛び出していた。もちろん外は雨である。傘を差していても雨は容赦なく身体に染み込んでいく。だが、やはり彼女はそこにいた。横殴りの雨によって、胸元のリボンもその形を崩してブラウスに張り付いてしまっていた。
 彼女はビショビショになりながら走ってきた俺を見て言った。
 「こんにちは。」
 まさか、挨拶をされるとは思いもしなかったのと、息を切らしていたのとでとっさに挨拶を返すことも出来ず、俺は急いで頭を下げた。すると彼女は言葉を続けた。
 「やっぱり来たんですね。」
 俺にはその真意が理解できない。「やっぱり」いたのは君のほうだと言いたかったが、それを口に出すことはできなかった。
 「どういうことだ。」
 「由貴が戻ってくると思ったんじゃないんですか。」
 「・・・・」
 言われて俺は初めて気がついた。俺は彼女が今日もここにいることよりも、今日こそは兄が来ているのではないかと思ったのだ。
 愕然とする俺を見て彼女は微笑んだ。そしてその微笑みは兄と同じ微笑みだった。

 あの日から俺と彼女はほとんど話をしていない。それは特に話すこともないからだ。話さなくても俺たちは毎日ここへ来る。俺がここに来る理由ももしかしたらわかっているのかもしれない。いや、彼女はきっと何かわかっているのだろう。そして俺自身はそれに気付いていないだけなのかもしれない。
 心に降る雨はやむことなく降り続ける。
 ポツーン、ポツーン。
 一滴、また一滴、同じところに降りてくる。
 俺はまだ気付かない。


1.5
「どうして雨なんだと思います?」
 一度、女に訪ねられた。たしか、台風の後、数日後のことだったか。いつものようにコンビニ前に立っていると雨が降ってきた、そんな日のこと。
 冷静に考えると何故、俺や女がついつい、雨と兄を結びつけてしまうことについて一緒に考えたい、そういうことだったんだと思う。しかし、俺は。
「?空の具合が悪いんじゃないですか?」
 そう、答えた。

 あの時、女はどんな表情をしていただろう。
 それも、思い出せない。兄の記憶と共にあるのか。

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