雨垂れ石を穿つ
2
雨の日。兄はよく出かけた。
そして雨の日にかぎって俺を誘った。俺は雨だからこそ、外になんて出たくなかったが、兄に引っ張られ不貞腐れながら傘を二本持って家をでた。
自分から誘っておいて、兄は傘を持たない。そのまま家を出ようとする兄を追いかけて俺は慌てる。
「由貴、傘させよ。」
俺が言っても兄は聞かない。
雨の中を小学生、いや幼稚園児のようにステップを踏みながら進む。濡れる草原の上に平気で寝そべり言うのだ。
「草の匂いが気持ちいいぞ。お前もやってみろよ。」
これが、俺よりも2ランクは上の高校に入り、両親の期待に答え、国立大学の法学部にストレートで入った男の科白とは思えなかった。
「草の匂いは良いかもしれないけどな、起き上がった由貴からはきっと泥の匂いがするんだぞ。」
相手にしないようにするつもりでそう言ったのにも関わらず、兄はむしろ喜んだ。
「・・・泥。土の大地の匂いじゃないか。」
呆れるばかりだ。
そう言えば、あの時、兄は・・・
「どうしようもならないことがあるんだよ、亜樹。」
そう、俺があまりの兄の奇態ぶりに文句を言ってやったときのことだ。
「何だよ、それ。」
「つまりね、世の中の全て、例えば生まれてきた人間全てに意味がある。君たちには役目があるんだ、と人は言うだろう?だけど、本当はやっぱりダメなものはダメだし、何にもならないことだってあるんだよ。」
俺と比べて、いや俺だって悪い方じゃないが、世の中の成功者のような兄にそんなことを言われても俺にはピンとこなかった。
「何だよそれ、嫌味?」
だけど、兄はまたいつもの微笑みを浮かべた。
「違うよ、役に立つことが、理由があることがどれほどのことかっていう意味だ。理由があれば何でも許されるのか?亜樹、お前は理由があれば人を殺してもいいと思うかい?」
「無差別よりは同情の余地があるんじゃねえの。」
「それは俺たちの気持ちの問題だろう。結局は同じことだ。無差別犯に殺されても、別れた恋人に殺されても、本人や周りからすれば、ただ『死んだ』だけだ。」
こいつが法学部に行ったのがそもそも間違えな気がしてならない。大学でだれがこいつの相手をしているのだろう。まあ、今相手をする俺も俺だけど。
「でも、何の理由もなく人を殺してほしくはないな。少なくとも俺は。」
「うん、それは正しいんだよ。」
嬉しそうに笑う兄。上から俺が傘を差しているとは言え、濡れた草の上で兄の身体はすでに泥まみれだった。
「結局、何がいいたいわけ?」
とりあえず、話を終わらせ今日のところは帰りたかった。いくらなんでも、これ以上泥まみれが悪化する兄と並んで帰るのはごめんだったし、5月の暖かい雨とは言え、これ以上ここにいては兄はもちろん、傘を兄に向けながら立っている俺自身も濡れて風邪を引きそうだった。
「物事に正しい意味や理由なんて無いことの方が多いってことだよ。どんなに些細なことでも具合の悪い人だっているんだよ。逆に、些細なことで喜ぶ人もいるだろう。何気ない景色で涙することもね。」
あの頃の兄が話すことはいつも唐突なことだったので、俺は一度も深く考えなかった。
「由貴は、何かに涙しちゃったりするわけ?」
今思うと、あの時、兄は一瞬表情を歪めた気もするが、今となってはそんなことはわからない。ただ、
「そうだね、今も実は泣いてるんだ、って言ったら、驚くかい。おれは『雨』に涙する。雨を見ると天が泣いているんじゃないかって考えるてしまうんだよ。」
あまりにあまりの答えに俺はもう、返事をする気力もなくし、兄の頭上に傘を置いて家に帰ろうとした。
「亜樹、 」
あの時、兄は、由貴は何と言っただろう。
3
ポツン。
頬に水滴を感じた。どうやら雨が降ってきたらしい。
そろそろ2時間ぐらいが経つだろうか。読んでいた雑誌を閉じ、俺は彼女の方を向いた。
彼女は俺を見ていた。
「雨、ですね。」
「ああ。」
俺には何と答えたらいいのか分からなかった。
『雨』は鍵だ。きっとそうなんだろう。でも、兄と彼女のことも、兄と『雨』のことも俺にはよくわからない。まだ答えが見つからないままだった。
彼女は微笑む。兄と同じ笑顔だ。
雨が降る。
天が泣いているのか。
俺の心にも雨が降っている。
薄ぼんやりと。
だんだん、それは湿り気を帯びて。
同じ場所で降り続ける雨。
やがて、そこにぽっかりと穴が
「本当はわかっているんです。」
彼女が喋り出した。雨はだんだん強くなってきたが彼女は動かない。濡れた髪が頬や首筋に張り付いていた。
「え。」
「由貴はここには来ないこと。」
・・・・・。
兄は戻って来ない。
「ただ、こうしてここにいれば、自分もそうやってどこかへ行ってしまう気分になるかもしれない。そう思って、自分を待っているのよ。」
自分を、待つ。
パサッ。
俺の腕から雑誌が落ちた。三年前は草の覆い茂っていた、今はコンクリートの地面に落ちた雑誌は雨を受け、そしてやがてふやけた紙面に穴が開いた。
「でも、それ自体も言い訳。戻ってこないことはわかっているけど、それでももしかしたらって、そう、あなたが言うように具合が悪くなってなんて理由でひょっこり戻ってくるんじゃないかと期待して、ここで待ってしまうの。」
そう、意味なんてないんだから。唐突に戻ってくるかもしれない。
でも、
「でもね、やっぱり戻って来ないのよ。だって亜樹君、あなたはどこにもいかないんだから。」
兄は言った。「例えば自殺にだって勇気がいるんだよ。生きてく気力もない敗北者が自殺するって意見もあるけど、自殺しきれないで苦しんでる人間もいる。」
俺にはどこかへ行ってしまう勇気なんてないのだ。
「私は、由貴が来るのを待って、自分がどこかへ行く気になるのを待って、そして亜樹君、あなたがどうなるかを待ってた。」
行くからと言って別にその人が勇気のある特別な人ってわけじゃない。だってここにある全ては不確かなのだ。
俺は誰が俺に兄を見ようとも、兄ではないのだ。
「あなたは由貴とは違うのね。そして、私も違ってた。」
『当たり前』って状態がどれほど特殊なことかを人は知ろうともしない。
兄がいなくなったのは兄がすごい人間だったわけでも、弱い人間だったんでもない。そういう人間だったのだ。
「だから私。今日で『待つ』のは止めるわ。由貴は行くときが来るのを待ってたけど、私はやっぱり『待つ』のは嫌いだわ。」
人にはどんなに些細なことでも具合が悪いことがある。
この世界の美しさや醜さに涙してしまうこともある。
結局は今なんてものも未来なんてものも不確かだ。
過去だって絶対なんて言えるはずもない。
意味もない、理由もない。
あるのはただ不安。
でも、
「あの、」
俺は彼女を呼び止めた。今度こそ、言葉で繋ぎとめる。
「俺が会いに行ってはいけませんか。俺も『待つ』のは嫌いなんですよ。」
「・・そう、気が合うわね。」
彼女は微笑んだ。兄と似ている?いや、もっと晴れやかな笑顔で。
4
眼を覚まし、鏡を見る。
そこに写る顔は俺の顔だ。
相変わらず、兄は行方知らずのままで、母は俺と兄を重ねようとする。けれど、俺は俺だということを知っているからそれでいい。
別に俺は雨を見て泣きたくなったり、草木に寝そべって、どこかに飛び出して行こうとは思わない。
だが、俺だけの琴線に触れる、俺だけの悲しみ、喜び、苛立ち、そして不安がある。
だから、その感情は説明できるものじゃないのだ。理由もないし、目的だってない。
兄の言った意味がようやく分かる。
「不安でどうしようもなくなることがあるんだ。別に悩んでるとか、死にたいとかそういうことじゃないんだ。ぽっかりと穴が開く感じ。そう、それは・・」
心には誰しも雨が降っている、晴れることもあれば曇ることもある。ずっと同じ天気が続けば人の心はぼんやりとしていて騙されやすいから、どうなるかわからない。
有り体に言えば、「ぼんやりとした不安」そんなものだ。
<了>
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