*梶井基次郎「檸檬」リスペクツ作品(本物の舞台は京都ですが;)


                                            老いる前に檸檬を




それは昔からの憧れでありました。
 日本橋の丸善の人文書のコーナーに、新鮮な檸檬を一つ、置いてくるのです。
 別に自分は結核持ちでも流行病に犯されているわけではないのです。けれど、それでも。
 何か意味があるかと聞かれても、きっと何もないのです。
 でも、その檸檬にはきっと、私の浪漫が詰まっているのだと思います。


 そのきっかけは何だったか、もう思い出すこともできません。
 とりあえずと憧れ始めた年には、まだ八百屋で自分で檸檬を買うことがとても高尚なことに思えて、そのまま悶々として早何年かが経っていたことを何となく記憶しています。
 檸檬を爆弾だと思う年頃も過ぎて、でもどこかで夢が見たい、そんな頃合いだったのでしょう。
 たとえば書店で、たとえば自室で、本棚をひっくり返してみたくなったりもするものです。
 もちろん、怖がりだからしませんし、すでにひっくり返されたような部屋ではありますけれど。

 この檸檬を買ったのは実は昨日のことなんです。
 少し寝坊をしてしまって、家を出はしたものの、授業に向かう気にはなれない、そんな、たまにある一日だったと思います。
 学校の方へぷらぷらと歩いて、結局門はくぐらずに裏の方の公園まで足を伸ばすことにしたんです。
 もう、こんな季節ですから、櫻も新緑も遠いですし、紅葉…とは言うものの、今年の荒れた天候でそうそう美しい眺めは望めない状態でした。
 小さな虫や鳥たちも大分数が減って、そこにあるのは自然も人間もそのほか全ての生き物の、老いた、終焉の様でした。
 老人たちの歓談のベンチの隅では同じく老人たちと生活を共にする犬たちの団欒があり、ゴミ箱の裏では汚れた野良猫たちが会議を開いてるようでした。
 風も少しずつ冷たくなって、その分、空の蒼さこそ増しますが、私の指先も木々の葉もささくれだって痛みも増してきました。
 それこそ、諦観したお偉い作家先生の気持ちというやつに勝手になりきっていたんですよ。
 じいっとそんな老いた情景を見つめていました。本当は数十分も経ってはいなかったと思います。私にはそれがとても長く感じられたものですが。
 吸い込まれていく、そんな気がしたものです。老いとは奪うものなのかもしれません。気や精を。そしてじんわりと生き物は老いていくのです。
 老いていくことは当たり前で、そこから置いていかれることはむしろ不条理なのですから、老いを怖いとは私は思いません。
 不条理だなんて言葉、最近使わないものですよね。
 ただ、そこまでの老いていく過程、それこどが大事なのだと、私は気付かされただけのことです。

 そこで檸檬の香りがしたのです。
 さすがにどこからともなく香り、幻覚を見たなどと言うつもりはありません。
 私の目の前で檸檬を取り出すご老体がいたのですから。
 そう言えば、結局彼が何故檸檬を手にしていたのか私は聞きもしませんでした。
 私はただ、その檸檬の香りに、幼い頃憧れた、檸檬の爆弾を思い出したのです。
 檸檬、それは子供の私にとっては未知の危険で、今の私には生命の証明のような甘美な香りがしました。
 私は穴が開くほど檸檬を見つめていましたから、ご老体はそっと檸檬を私に一つ渡すと、二百円だと言いました。
 老人の小さな手に収まるほどの檸檬です。そんな馬鹿なと言うこともできたかもしれませんが、気付いたときには私はご老体に五百円玉を渡し、そのまま公園を後にしていました。
 
 買った檸檬はとても小さく、自分の手に取る前はひどくみすぼらしく思えたものですが、実際に自分の手に収めてみると、とても美しい形、そして香りを漂わせていました。
 それは単なる青果店の檸檬ではなく、私にとっては繊細なダイヤモンドか、妖しい爆弾であったのです。
 おそらくそれは幼い頃の浪漫で、不条理という形のないものを具現化させたもので。
 おそらくそれは若い香りで、老いに置いていかれる前に何かを突き動かす象徴で。
 私は自らの手に檸檬という、若さの爆弾、不条理のダイヤを手にしていたのです。

 しかし、嗚呼…嘆かわしいのは世の再開発ブームというものです。
 日本橋の丸善は今、その姿が見えず、さあ、どうしましょうかと思っていたところ、あなたがそこにいたのです。
 そうですか、今は丸の内に。
 ええ、でもまさか日本橋が本店じゃなかっただなんて全く知りませんでした。
 そうですね。せっかくですし、丸の内に伺おうと思います。
 
 学校、そうですよ。授業があるんですけどね。
 そろそろ、終わる頃です。
 ええ、来週は必ず行かないといけませんね。
 助手の方に、叱られてしまいますから。



あとがき
文芸部部誌「静寂」にて発表。
普通に本読みなら誰でも気付く、梶井基次郎リスペクツ小品。
あ、ちなみに本物の「檸檬」の舞台は京都だったはず。あくまでパラレル。
梶井氏は私が最も敬愛する作家の一人であります。
檸檬のいう作品は私という人間のかなり部分に影響を及ぼしています。
なので、この作品は非常に恥ずかしい。
日記を読まれることよりも、部屋を見られるよりも、
まるで青少年の自慰のように恥ずかしい。
のに、時間がなくて編集さまに送れる作品がこれしかなかったという事実。
(それしかないのか己はという自主突っ込み)



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