3.
わけもわからないまま道を歩いた。汗が肌を伝って、地面に落ちる。
よくわからない、嗚呼、僕はどうしてしまったんだろう。記憶がないと知った直後より、どんどん思考が、視界が、ぼんやりしてきている。鍵がかかっているんだ。鍵?そういえば、部屋の鍵をしただろうか。何の鍵だろう。そんなことを気にする必要はないはずだ。コーヒーの香り、ああ、代金を払ってない。お金ならあるのに。僕はただ自由なんだから。自由?何に囚われていると言うんだ。
嗚呼、囚われてるのは「僕」だ!
『僕は全てに疲れたんだ。もう何も浮かばない。』
『地位や名誉にこだわっているのは海の方だよ。』
『でも僕は空といたいんだよ。何もかもを捨てて君だけを選ぶのは
この世界ではとても難しいことだよ。』
『全てに疲れたと言って、あたしも連れて行くのなら同じことだよ。でもね、
あたしは海が大事だけど、海の三分の一も生きてないよ。そんなとこには
行きたくない。パパやママと同じとこでは生きたくないんだよ。』
これは何だ?あれは、あの少女は誰だ。あれは「僕」の・・・
『どうすればいい、どうすれば君といられるんだ。』
『子供みたい。全てを捨ててみればいいじゃない。』
『な、なにを・・』
『全部忘れちゃえばいいんだよ。』
『・・・でもそれじゃ、君のことも忘れてしまうかもしれない。』
『あたしは平気だよ。忘れてても、また会えればいい。ううん、忘れちゃってよ。
もう、海が嘘をつくのも、苦しそうなのもやだよ。だから、ちょうだい。
海のすべてを。』
僕は夢を見ているのだろうか。そうだ夢だ、夢に違いない。こんな・・
浜風が僕の身体を包む。涙がこぼれる。足下がおぼつかない。
『そ、ら・・・わかったよ、君に僕のすべてをあげるよ。だから、もし僕が・・』
流れてくる、汗?いや涙だ。泣いているのは僕か、それとも・・・
もう夢は終わったのか、それともこれも夢なのか、ただ涙が止まらない。
それでも僕の足は浜辺に向かう。白昼夢の続きを求めて。君は僕を待っていないのに。
行く当てなどない。でも僕は夢の結末に期待するほかないのだ。
太陽はさらに高くなり、僕を照らす。ジリジリと汗が流れる。
夢は夢でしかないのか、それともあれはうだる空気が見せた幻でしかなかったのか。
と、・・・
瞳の中に空色のワンピースが飛び込んでくる。
(幻だろうか。)
浜辺を歩く少女がいる。風が強い、飛ばされないよう麦藁帽子のつばを押さえている。
(ああ、これは現実だ。)
あの子は誰だ。僕は知っている。覚えてなどいないはずなのに、だけど知っている。夢でも幻でもない、帽子の下には強がりな君の、精一杯涙をこらえた顔。
ああ、ああ、そうだ。君だって僕といたかったはずなんだ。
今、僕の眼に写るのは、浜辺にいる麦藁帽子をかぶった、ワンピースの少女。
僕は迷わず少女のもとへ歩いた。顔がはっきり見えるぐらいの距離で、俯きかげんだった少女も顔を上げた。
「ソラ」
「う、み・・・」
空の驚いた顔を見るのも久しぶりな気がする。それはそうだ、初めて会うんだからね。
「会いたかった。」
「どうして忘れてないの。忘れるって言った。約束したよね、どうしてっ、」
「忘れたよ、だから空に会いに来たんだ。これからはずっと一緒だ。僕は全部、空のものだよ。」
そう、僕は何も思い出しちゃいなかった。ただわかるのは空のことと海のこと。通帳に書いてある名前も、おえらい作家先生も僕には他人だった。
「・・・っ、ばかだねぇ、海は。」
「そうかい?空も待ってたじゃないか。」
「違うよ、あたしはただ、そろそろ登校拒否をやめて学校にでも行こっかなって、真剣に考えてたんだもん。」
皮肉屋の少女、頭が回りすぎる分、素直になれないのだ。
「一般的に言って、もう夏休みなんじゃない。」
「え、あっ、そっか。」
「夏休みが終わっても、ずっと一緒にいよう。」
「隠れたりしないの?そうよ、原稿はどうするの、」
「隠れないし、原稿って言われても僕はただの海だからね。空といること以外にできることがないんだよ。」
浜辺を二人で歩く。お互いが自然に腕を伸ばす、手をつないだ。簡単なことだ。
「あぁ、学校行きそびれちゃったよ。」
「ランドセルに未練がある?」
風邪で帽子が飛んだ。空の太陽に重なって、海に落ちた。
「ランドセルは別に。ああ、海に取られちゃったね、帽子。中学の制服は作るね。セーラー服見たいでしょ。」
「空は何でも似合うよ。ああ、帽子の代わりに空に鍵をあげるよ。」
重なる言葉。二人だけの会話。
店の扉を開ける。やはり中には誰もいなかった。
主人が顔をあげる。その硬い表情からは何か悲しみのようなものが見て取れた。
「鍵を返して下さい。」
「・・・」
苦い顔をした主人。そう、主人はずっと、ただ一人、僕らの味方だった。だからこそ小説家の僕はこの人に「僕」の人生を、言葉を、預けた、らしい。僕が思い出したのは、空のこと、そして鍵の在り処、それだけだから。
「空に上げようと思うんです。」
「え?」
「鍵を。もう、必要ないですから。」
「ああ、そうですか。」
主人の顔が途端に明るくなる。僕の表情も柔らかくなる。店内のコーヒーの香りも、今は優しい。
「鍵を開けて、〈日記〉も捨ててもいいと思ったんですけど・・」
言いかけて、主人が慌てて、口を開いた。彼が慌てる様子も僕は初めて見る。
「いえ、それはもったいない。残しておいてください、私は〈あなた〉の友人のつもりですが、先生のファンなんですよ。あれは、先生の遺作でしょうから。」
「・・・空にも似たようなことを言われました。ずっとあのままにしておこうと思います。」
僕が微笑むと、主人は黙ってうなずき、手を差し出した。慌てて、僕も手を伸ばす。渡されたのは、小さな鍵。
「〈あなた〉の人生が豊かなものであるよう祈っています。」
「ありがとう。もう大丈夫ですよ。」
扉を開けると、すぐ側で空はしゃがんでいた。何かを見つめているようだった。
「はい、これ。」
「うん、ありがとう。」
立ち上がり、鍵を受け取ると空はそれを力いっぱい握り締めた。その顔は少しだけ、泣きそうに見えた。
「海・・・ほ、ん 。 ・・ょう説、・・う、・めないね。 」
「どうしたの?」
空は小さく首を振り、鍵を海岸側の空に向かって投げた。それは陽の光に反射してキラキラと光り、そして消えた。
「行こう。」
「どこへ?」
「海の行きたいとこなら、どこでもいいよ。」
「じゃあ、海と空の見えるところにしよう。」
これが「海」と「空」の、僕の最初の話です。
僕は海を忘れなかった、空を忘れなかった。
空に忘れて欲しくなかったから。
だが、僕はある小説家に嫉妬した。小説家の遺作は今も、あの部屋の引き出しに眠る。彼の小説家は、もう僕ではない。でも、空はきっとあの小説家を憎みながら愛していくのだろうから。
空がしゃがんで見つめた先を見た。
そこには咲き残った勿忘草の青い花が咲いていた。
・・・そう、ワスレナグサのアオイ花。
そんなことは知らない。
「うみー、行こうよ。」
僕は空と行く。
「私を忘れないで下さい。」
FIN.
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