2.


 十分ほど歩いたところに喫茶店があった。小ぢんまりとしているが所帯じみておらず、おそらく今の僕にも、そして前の僕の趣味にも合うのだろう、入ったことがある気がして、ゆっくりとその扉を開けた。年季の入った扉は開けるのにギイッと重い音を出した。
 外観を裏切らない、古いがこぎれいで人を落ち着かせる雰囲気の店内。中のカウンターには主人と思われる男性が一人グラスを洗っているようだった。
 「いらっしゃいませ、先生。」
 それは足を踏み入れた瞬間だった。主人が目線を上げ、そして微笑んだ。
 僕は当然驚き、思わず店の中と自分の背後を見渡す。だが、やはり、そこには誰もいなかった。あるのはただ薄暗い部屋と静寂だけだ。
 先生とは僕のことなのだろう。だがそれはどういうことだろうか。僕は学校の教師でもしていたというのだろうか。
「ああ、本当に覚えていらっしゃらないんですね。」
 またしても訳がわからない。何故この人は僕のことを「先生」と呼び、僕に記憶がないことを知っているらしかった。微笑む主人は僕にカウンター席をすすめた。

 『あたしはきっと独りでも生きてられるよ。でも、忘れられたらきっとさびしいね。』
           
 そこから主人の話した内容はあまりに信じがたいことだった。
「先生がおっしゃったんですよ。『次に会うとき僕はおそらく僕自身、そして僕に関わる全てを何も知らない。たぶんあなたのことも。』とね。」
・・・意味が、わからない。それではまるで・・・
「どういうことなんでしょうか。その、要するにそれは・・・僕が僕自身の意思で記憶を失ったということでしょうか。」
 解らないながらも、僕は頭に浮かんだ疑念をそのまま口にした。口がうまく動かせない。唇は乾き、舌がもつれそうになる。
「さあ、私には何とも・・・ですが、そうおっしゃったときの先生は、とても穏やかな顔をなさっていました。そう、ちょうど先生が今この店に入って来たときと同じように。」
「おだやか、ですか。」
「ええ、私ごときが判断するのは失礼かもしれませんが。」
 いったいこの人は何を言ってるんだ・・。
 震えが止まらなかった。しかし、その震えは未知の恐怖からくるものばかりではない。
 僕の心は穏やかで、身体が軽く感じるのはまぎれもない事実なのだから。


 その話を理解するには少しばかり、時間を要した。つまりこうだ。店の主人の話によると、「僕」はデビュー以来、かなりの賞を受賞していて、若いながらすでに文学界である程度の地位を得ている小説家であるらしい。それまでは都心に住んでいたらしいが、一年ほど前にこちらに越して来たようだ。そして何日かに一度はこの店を訪れる常連になった。それから、その、「僕」がこの店を一番最近、つまり最後に、訪れた日、そう、二日前、「僕」は主人に記憶を捨てると言ったらしいのだ。
「どうして僕はそんなことを・・・」
 出されたコーヒーを飲み込む。熱い、身体が内側からジリジリと焼けるようだった。
「それも私には・・、先生はいつも私とは違う、高みから世界を見ているようなかたでしたから。」
「僕が、ですか。」
「今の先生は少し違うかもしれません。先生はもっと、」
「もっと?」
「いえ、何でもありません。そうですね、海にはもう行かれましたか。」
「海ですか。いえ、道なりに歩いてきたので。」
 コーヒーの香ばしい香りと苦みが空気にまで伝わる。主人の飲み込んだ言葉がコーヒーと一緒に空気に溶けた。
「行ってみるといいんじゃないでしょうか。」
 主人は何かを知っている。わかったのではなく、頭の奥の僕がそう言った。

  海、うみ、ウミ、umi、青、藍は海の色、あお、
           アオ、蒼は空の色、ao、空、そら、ソラ、sora、
  ・・・砂浜を歩いた、揺れる麦藁帽子、風邪にそよいだ
        
『海って呼ぶね、それであたしが空。二人だけの名前だよ。』
        
「あなたは僕の何を知っているのですか。」
「先生はいつも海に行かれてましたよ。私にはそれ以上のことを言う権利がありません。」
「そうですか。」
 薄暗かった店内が少し明るくなった。太陽が高くなってきたようだ。
「行ってみます。」
 何かに追い立てられるように・・いや違う、はやく行かなければならいのだ。光に誘われるように腰を上げ、店を出た。

「先生、あなたが再び、ここにこないことを祈っています。」
 店主の呟きは半分は当たり、半分は外れることになるのだが、その時の僕には全くわからなかった。この時、僕が店主が握っているのが僕の秘密と言うよりも「僕」からの預かりものだということに、少しでも気づいていたら何かが変わっていたのだろうか。


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