forget me not



『欲しいのはあたしのことだけ考えてくれる人だよ。』

 カーテンの隙間からこぼれる柔らかな陽射しで目が覚めた、朝である。目に入ってきたのはホワイトベージュの薄ぼんやりとした天井、そして裸電球。身体の感覚が鈍いのだと思った。この身体をどう動かせば都合がいいのか解らない。ようやっと起き上がり、そこはベッドであると気づく。床のフローリングと程よく合わせた色の布団、まだよくわからない。すぐ側のサイドボードにあったミネラルウォーターと思われる水のボトルをつかみ、喉を潤してみた。喉と一緒に頭や視界もはっきりしてきたようだ。ああ、自分は寝ていて、そして朝になったのだ。

 それでも、よく、わからない。                  

 少しの焦りと不安感から喉から声が漏れる。聞こえたのは「ああぁっ〜ゥ」という音でしかなかったが、そこで僕は、(後から思うと、ごく自然に「僕」と認識できたことがまず第一かもしれないが)とても大事のことにようやく気がついた。

 自分が何者なのか、わからないのだ。

 もちろん、いやもちろんと言うより何故か、自分が人間であり男であり、さらに言えば思考に使っている言葉からして日本人であるということはわかるのだ。だが、自分が誰で、どういう顔をしているとか、家族や友人の顔だとかいうものが全く浮かばない。
 ひとつひとつ何か覚えていることはないかと考えてみるが何も浮かばない。だが、その割に僕の心に不安感はなく、思考すればするほど落ち着いてきていた。そういう人間なのかもしれない。

 『あたしといっしょにいるのに普段の記憶なんていらないよね。』

 起き上がって、とりあえずどうしようと考えたが、何も困ることはなかった。こうして思考していることからも解るように、僕には一般教養と言える知識が備わっていた。僕が覚えていないのは、本当に僕自身に関わることだけのようだ。僕が寝ていた部屋が真実僕の部屋かは自信がないが、確かに僕の知っている部屋ではあるらしく、ぼくはその部屋に服があることをなんとなくわかっていたし(ただし見覚えのある服はなかった)、部屋のつくりもだいだいのところ、身体が知っていた。
 それでも、洗面台で自分の顔を見たときの違和感といったら、それはすごいものだった。何しろ本当に見たことがない顔が鏡に写っているのだから。
 そこで卒倒するなり、絶望するなりしてもよさそうなものだが、僕はそうはならなかった。僕はそれをだんだんおもしろがっていたのだ。もちろん、これは僕が見た初対面の僕の顔が悪くなかっただとか、冷静に考えている自分の知能は悪くないということを受けてのものだけど。
 部屋を捜索してみると状況は僕にとっておもしろくなるばかりだった。小さな冷蔵庫と食器棚には何日か生活するにはとりあえず困らない食料や保存の利く缶詰などが納まっていた。クローゼットには今着ているもの以外に四季にあわせた服、さらには机の一番上の引き出しには財布と通帳があった。財布にもそこそこの金額が入っていたが、何よりおどろいたのは通帳だった。そこに書いてある金額が僕のものだとすれば、僕はこのままの状況に何も不安になることはなかった。贅沢をしなければ、十年や二十年は生活に困りそうにないだけの金額がそこには明記されていたのだ。
 笑いがこみ上げてきた。おかしくてたまらない。何だろう、この解放感!
 僕のまわりにあるのはただ自由だけだ。

 『二人でいるのに必要なのはお金や名誉なんかじゃないよ』
 
 気に入らなかったことは2つほど。通帳に書かれた、あまりに平凡な、だがおそらく僕のものと思われる名前。顔も頭も自分では十人並み以上と判断しただけに、その名前は気に入らなかった。
 さらに僕をいらだたせたのが開かない引き出しだ。部屋にあった机は5つの引き出しのついたごく一般の書斎に置かれるタイプのものだった。4つは鍵もついておらず、財布と通帳の入っていた一番上の引き出し以外にはとりたてて驚くべきものは入っていなかった。だがそこに1つ鍵のついた引き出しがあったのだ。
 それを見た瞬間、開かないことが僕にはわかった。そう、わかっていたのだ。
 ・・・・でも何故だ?

 『言葉は残しておいた方がいいよ。後悔するかもしれないし』
 
 特に何かをしたいと思ったわけではないが(なにしろ何もする必要がないので)、なんとなく、いや何かに引き寄せられるように外に出ようと想った。さすがに部屋を出るためにドアに手をかける瞬間は身体に緊張があった。指先が震え、うまくドアノブが回せない。そのイライラにあわせるように背筋を冷や汗が流れた。何しろ、落ち着いているとは言え、今の僕には外の景色を見た記憶がない。僕の今の状況はそう、見るもの全てが目新しく写る子供と同じだ。
 ガチャリ・・・
 開けてしまえばどうと言うこともなかった。そこから見えたのは背の高い木と何処までも続く青い空だった。そこで僕は初めて僕のいた部屋が地上から距離のある場所だということに気がついた。部屋にいたとき僕は、窓の外を見るどころか、窓の方を見ようともしていなかったのだ。ただ、その時の僕の驚きが初めて見る景色に対してのものか自分が周りをまるで見ていないことにたいしてのものなのかは僕にはわからなかった。
 僕のいた部屋はアパートの七階らしかった。なにしろアパートには階数の表示もなければ、エレベーターもないのだ。だが、そのレンガの壁や、落ち着いたヨーロッパ調の電燈、それに螺旋階段は今の僕から見てもとても趣味のよいもので、階段を下りる作業もさほど苦痛ではなかった。
 
 『空が見えるね。どこからでも、いつも見ていてね。』
 
 アパートは海岸線に建っていた。これではまるで映画だ。おもしろがるのはいいが、やはり自分は何者なのかという疑念が頭にちらついた。それだけ自分が冷静になってきた証拠とも言える。なにしろ周りにはこれといって何もない。とりあえず海岸線と言っても、切り立った崖というわけではなかったので、歩くことにした。
 本当に穏やかだった。空にも海にも、そして僕にも何も遮蔽物はないまっさらな世界。きっとここには間違ったものなど何もないと錯覚してしまいそうになるほど、その空は青いのだ。

 『この空もこの海も、そう海も、永遠にあたしの物にはならないんだね。』

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